古代史

2010年10月31日 (日)

一重瞼と二重瞼

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 目は、人間のマナコである。 (当たり前)


顔の印象で一番のポイントは、やはり目でしょうね。

細い目、ギョロ目、垂れ目、吊り目など、目の形の印象。
優しい目、賢そうな目、ずるい目、凶悪な目、エッチな目など、人柄の印象。・・・・

なんとも、目の印象は多彩なのであります。

口とか鼻とか耳などは、こんなに多彩ではありません。
大きいか小さいか、高いか低いかアグラか、ぐらいのものでしょう。

それだけ、目に比べて印象が薄いということです。
だいたい、写真の目を黒線で消せば、誰だか分からなくなりますものね。

                      ☆

お遊びで何人か、有名な方の目を拾ってみました。
さあ、わたしは誰でしょう? 

全てお分かりなら、あなたの観察力は相当凄いです! (笑)
(正解は末尾に)

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                      ☆

                      ☆

古代史雑学

なぜ日本人には、一重瞼、二重瞼の人がいるのでしょう? 

プチ整形で、一重瞼を二重瞼に整形する人が結構いるそうですね。
二重を一重に整形、というのはあんまり聞いたことがありませんから、
どうやら二重瞼の方がカッコ良いということなのでしょうか。

父ちゃんにすれば、何でそうなのかな~と不思議な気がするのですが、
(ちなみに父ちゃんは一重瞼です)
まあ、人それぞれの好みですから、別段ケチをつける気持ちは有りません。

実はこの一重瞼、二重瞼は
日本人のルーツを探る上で、とっても大切なポイントなのです。
まあ雑学の域を出ませんが、少々探ってみましょう。

                      ☆

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少々古い話で恐縮ですが、約600万年前に(古過ぎる~!)、
アフリカ大陸で人類の祖先が誕生したといわれています。

人類に近いチンパンジーの目はクリっと大きいですよね。
恐らく、誕生した人類の目も二重でクリっとしていたようです。
(見通しが良いように)

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今から6万年ほど前に、理由は特定出来ませんが、
アフリカ人類の中から、一部の集団が東に向かって移動します。

集団はヒマラヤ山脈に突き当たり、
今のインドから東南アジアに至る南廻りのグループと、
今のモンゴル・中国からシベリアに至る北廻りのグループに別れます。

アフリカ人類は移動しながら、
各地の気候・風土に適合するために小進化を繰り返すのですが、

南廻りのグループは、故郷アフリカの気候・風土とさほど変化が無く、
骨格、体毛など進化は緩やかでした。 (目は二重)
今もインド・東南アジアの人の目は二重ですよね。

激変したのは、北廻りのグループ でした。
極寒に適合しなければならなかったのです。

先ず体毛が薄くなりました。
体毛が凍結すると危険だからです。(ツルっとしたお肌)
寒気に接する面を小さくするために、鼻は低く、顔は扁平になりました。
目は細く、一重に進化しました。
いまのモンゴルや中国・朝鮮半島の人達に、特徴が表れていますよね。

                      ☆

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     縄文人イメージ

さて、日本人の祖先はどこからやってきたのでしょう? 
先ず3万年ほど前に、今の東南アジア辺りから島伝いに
南廻りのグループが日本列島に移動してきて定住します。
縄文人と呼ばれる、日本人の祖先でした。
(体毛は濃く、顔の彫り深く、目は二重)

その後、シベリアに辿り着いた北廻りのグループが南下して、
北海道や北東北から日本列島に移動してきます。(3万~1万年前)
弥生時代に入って、朝鮮半島から大量の北廻りグループが移住してきます。
(体毛は薄く、顔は扁平、目は一重)

6万年前にヒマラヤの西端で別れた二つのグループが、
日本列島で融合するのです。(人類の壮大なドラマですネ) 

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                     ☆

私たちの親は2人、そのまた親は2人づつで4人、そのまた親は8人・・・
私たちは皆、その親たちの血を受け継いでいるわけですね。

代を遡(さかのぼ)る毎に、親の数は倍々になっていきますが、
20代ぐらい遡ると、(室町時代あたり?)
なんと、私たちが受け継いでいる親の数は何千万人になるのです。

血統とか家系とかいいますが、
『家』 を基準に単純化したもので、実質は何の意味も無いことなのです。
日本人全てが、どこかで融合しているわけですね。
日本人全てが、遠い遠~い親戚なのです。 

縄文時代以来、現代にいたるまで、
二重瞼の南廻り組(古モンゴロイド)と一重瞼の北廻り組(新モンゴロイド)は、
日本列島で完璧に融合を遂げたといってもよいでしょう。

けれども二重の遺伝子と一重の遺伝子が結合して、
新しく進化する為には、「進化の時間」が経過していません。(何万年単位)

私たち全ての日本人は、二重瞼・一重瞼の両方の遺伝子を持っています。
(目だけでなく、骨格・体毛など全てで)
どちらを受け継ぐかは、言ってみれば運みたいなものでしょうね。
兄弟姉妹で分かれる場合だって有ります。

※ 南北の端で比較的融合が遅れた琉球人やアイヌの人たちに、
縄文人(南廻り組・古モンゴロイド)の特徴を残した人たちが多いですね。
体毛が濃く、二重瞼の人が多いです。
タレントのゴリさんなんか、代表選手なのでは? (笑)

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                     ☆ 

以上、
「日本人に一重瞼・二重瞼がいるわけ」 の雑学でした。

「だから、どうだって言うの?」
そう言われても、何に役立つ雑学か、私にも分かりません。(悪しからず)

《 クイズの正解 》
小沢一郎   志村けん
五木ひろし  蓮舫
次郎たん   鳩山由紀夫  でした。

                     ☆

                     ☆

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若い頃は、「目が可愛い!」ってよく言われたものですが・・・
でも、年取った今でも、結構イケルよね。 (親バカ)

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2010年10月29日 (金)

光明皇后の、深い愛

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          正倉院

23日から奈良国立博物館で、「正倉院展」 が開かれています。
早朝から1000人を超える行列ができるほどで、大変に盛況のようです。
古代に関心を寄せる人が、全国から集まるのです。

並行して、現在東京国立博物館で催されている、
「東大寺大仏…天平の至宝…展 」 も「正倉院展」に劣らぬ人気とか。
今は、まさに 「古代ブーム」 なのでしょうね。

学術だけでなく、芸術(絵画・音楽など)やファッションの分野にまで、
「古代」 が見直されているそうです。

「古代ブーム」の背景にあるものは、
混迷を深め、将来が全く不透明な現代、
いま一度、この国の成り立ち(原点)を見詰め直そうということなのでしょう。

                     ☆

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      牽牛子塚古墳の石室

古代ファンのロマンを掻き立ててくれる発見が相次いでいます。

奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳 の発掘調査で、
斉明女帝の陵墓であることが特定されて、大きな話題になりました。
「大化改新」 の頃の、動乱の古代が蘇ってきます。

時を経ずに、今回また大きな発見が発表されました。
古代の大スター、聖武天皇と光明皇后 に纏(まつ)わる物でした。

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      東大寺大仏殿 (金堂)           東大寺大仏 (盧舎那仏像)


1250年ぶりに判明! 聖武天皇の愛刀
 

明治40年、奈良・東大寺大仏の足元の土中から、
見事な金銀の象嵌で飾られた、二振りの太刀が発見され、
「金銀荘太刀」 として国宝に指定されていました。

このたびX線調査などの検証で、二振りの太刀が、
1250年に渡って行方が分からなかった正倉院宝物の大刀
「陽寳劔(ようほうけん)」「陰寳劔(いんほうけん)」だったことが判明したのです。

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「陽寳劔」「陰寳劔」は
東大寺を創建した聖武天皇(701~756)の遺愛品で、
妻の光明皇后(701~760)が献納した後に正倉院から持ち出され、
行方不明となっていたものでした。 (正倉院の記録)

それが大仏の足元に埋められて、明治時代に発見されていたわけです。

いったん正倉院に納められた物が、なぜ大仏の足元に?
余程の地位の者でなければ出来ぬことでしょう。
さまざまな推理、憶測があるようです。

けれども、
生涯にわたって聖武天皇を支え、守り続けた光明皇后のことを想うとき、
恐らく持ち出して埋めたのは皇后であり、
そのことに、光明皇后の深い愛を感じるのです。

                     ☆

聖武天皇と光明皇后の物語を、少し綴ってみましょう。 

秋の夜長、よろしければご一読ください。

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           光明皇后

『光明皇后の深い愛』 

光明皇后は、名を光明子(こうみょうし)といいました。
父は権力者・藤原不比等(ふひと)、母は才媛を謳われた犬養(橘)三千代。

聖武天皇の皇太子時代に結婚し、天皇即位の後に正式に皇后となります。
これは王族以外から立后された初例でした。
皇后が天皇逝去の後に即位することがあるため、王族に限られていたのです。

勿論この特例は、絶大な権力を誇った藤原氏が背景に有ったからです。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となりました。

藤原の子が皇后となり、産まれた子がやがて即位して天皇となる。
藤原氏一族が、宮廷を完全支配する野望が始まっていました。

けれども光明皇后は、
実家の権勢を笠に着ることのない、心根の優しい女性でした。
むしろ実家の横暴を憂い、戒めていたと言われています。

                     ☆

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        聖武天皇

光明皇后の夫・聖武天皇は、即位して後しばらくまでは、
気の優しい、どちらかと言えばひ弱な感じの天皇だったようです。

聖武天皇もまた、
藤原不比等の娘(宮子、皇后ではない)が、文武天皇との間に産んだ子で、
相続闘争を制した藤原氏によって、即位させられた天皇でした。

藤原不比等にすれば、天皇は孫であり、皇后は実の娘だったわけです。
藤原氏恐るべし、というところでしょうか。

事実、藤原氏一族の専横ぶりは目に余るものが有り、
次々と政敵を粛清、ついに大事件が起きます。
それは、「長屋王の変」 と呼ばれる事件でした。

反藤原勢力の巨頭として、政治に重きをなしていた皇族の長屋王が、
藤原不比等の子等の謀略で、妃や王子もろとも殺害されたのです。
(長屋王自身は自害)

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      長屋王邸宅の復元模型

一族の不利益になる者は、たとえ皇族といえども抹殺する。
藤原氏ほど、王家の血を吸った一族はいません。
近衛家、九条家、鷹司家など、
今も名流と呼ばれる藤原一族の、歴史の闇の部分なのです。

                     ☆

「長屋王の変」の後、天変が起き、藤原不比等の子等が次々病死します。
都の人々は、長屋王の祟(たた)りとして怖れました。

今でこそ「祟り」は、一笑に附されるか半信半疑というところでしょう。
けれども当時は、「祟り」 は 「事実」でした。

「祟り」の観念が、政治を大きく動かしたことを学校では教えませんね。
「祟り」とか「神」とか「宗教」など、日本人の精神史的な教育の欠陥が、
日本史を暗記専門の不毛な教科にしているのです。
心のあり様が解らずして、事件は理解出来ません。

さて、長屋王の祟りを怖れたのは、聖武天皇も光明皇后も同じでした。
聖武天皇は、藤原一族に政治を委ねていた反省から、
藤原に対抗することで「祟り」を乗り越えようとします。

光明皇后もまた、自分も藤原一族である出自(藤原の女人)を怖れ、
悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設けて、
貧民や病人を救済して善を積み、「祟り」を乗り越えようとするのです。

そして、さらなる転機が聖武天皇に訪れます。
それは、愛する母との再会でした。 

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      平城京大極殿 (復元)

                     ☆

聖武天皇の母・藤原宮子は、
藤原不比等が、反藤原勢力の賀茂(かも)氏の女に産ませた子でした。

不比等は、宮子を文武天皇に差し出して皇子(後の聖武)を成したあと、
自宅に幽閉してしまうのです。
理由は気鬱(うつ)の病でしたが、事実は、賀茂氏の血を引く宮子が、
反藤原のこころを皇子に吹き込むのではないかと警戒した為でした。

藤原一族の横暴を糺す気持ちで、
光明皇后が、聖武天皇と母・宮子との再会を図ったと言われています。

やつれた母との再会で、聖武天皇は「反藤原」を敢然と決意するのです。
もう気の優しい、ひ弱な天皇ではありませんでした。

藤原一族を排斥して、人材を登用します。
当然藤原から命を狙われますが、光明皇后が必死に守るのです。

藤原の手から政治を取り戻し、
長屋王の鎮魂のためにも、貧困にあえぐ人民のためにも、
善政を施こうという共通の信念が、天皇と皇后の愛を深めます。
二人はまさに同志でした。

光明皇后が、聖武天皇との無邪気な愛を歌った歌が、
「万葉集」に残されています。

吾背子と二人見ませばいくばくか
このふる雪のうれしからまし

わたしの愛する夫と二人一緒に眺めれば、
降る雪さえ、なんて嬉しく想えることでしょう、というほどの意味でしょう。
なんとも素直で、愛らしい歌ですね。

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光明皇后の筆跡 (正倉院蔵)
書体の骨太さから、優しさの中に意志の強さが窺えます。
籐三娘は、「藤原の女人」であるということ。
光明皇后は、夫と共に藤原の専横を糺していこうとしましたが、
生涯、実家のことを案じてもいました。

                     ☆

反藤原を決意してからの聖武天皇の活躍は、目覚ましいものでした。
藤原の氏寺・興福寺を見下ろす高台に、東大寺を建立して威圧し、
仏教の力で人々の安寧を願うため、巨大な大仏を造営します。
従来なら、藤原の力なくしては為し得ぬ大事業でした。

そして、藤原に弾圧されてきた社会の底辺の人々
例えば優婆塞(うばそく)と呼ばれた、乞食坊主の集団を用います。
社会構成の変革ということでは、画期的なことでした。

聖武天皇の後半の人生は、
政治から宗教に至るまで、隈なく根の張った藤原社会への挑戦でした。
あくまでも人民の安寧のために闘ったのです。
そんな天皇を、光明皇后は、
藤原の子でありながら、藤原の魔の手から命懸けで守ったのです。

聖武天皇逝去の後、
愛する夫が心血を注いで造営し、自らも跪いた大仏の足元に、
光明皇后が夫の遺品(愛刀二振り)を埋めた気持ちが、
なんだか解るような気がしませんか?

光明皇后の、深い愛を感じてならないのです。

                     ☆

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   父ちゃん、今回の記事は長いよね~ 

                            dog じゃあ、またね

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2010年9月11日 (土)

蘇る、飛鳥・歴史ロマン

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奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、

発掘調査の結果、
飛鳥時代の 女帝・斉明天皇 の陵墓であることが特定されて、
新聞トップ面で報道(読売新聞)されるなど、大きな話題になっています。

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         発掘以前の、牽牛子塚古墳

          ↓  ↓  ↓

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決め手は、「八角形墳」

墳丘の周囲に敷かれた切り石の形状から、
築造時(飛鳥時代後期)に、
天皇陵墓にのみ許された「八角形墳」であることが判明。

※ 写真の人物が指している部分の屈折が、135度であることから、
全体像が八角形だと断定できる訳です。

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古墳時代に権力者の象徴であった前方後円墳が、
飛鳥時代後期(7世紀後半)には、
天皇陵墓のみ  「八角形墳」  に移行していました。

そのことから築造年代が、斉明天皇の没年と合致し、
この度の特定となたのです。

もう一つの決め手とされたのは、
棺(ひつぎ)を納める石室が二つに分かれていて、
棺を置く石台が二つ有ったことでした。

       ↓  ↓  ↓

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実は日本書紀の記述に、斉明天皇は,
実娘の 間人皇女(はしひとのひめみこ) と合祀されたとあるのです。

墓誌など、決定的な資料は発見されていませんが、
斉明天皇の陵墓であることは、ほぼ間違い無いことのようです。

この石室で、親子は永遠の眠りに就いたということなのでしょう。
斉明天皇の没後1300年以上の歳月が経過しています。
感慨深いものがありますね~

                   ☆

動乱の世の飛鳥時代  

斉明女帝の波瀾の生涯と、間人皇女の悲劇の恋 

飛鳥時代は、この国の形が整い始めた台頭期です。
いわば、産みの苦しみの時代といってもよいのでしょう。
権力闘争は凄まじく、謀略、殺戮が横行した時代でした。

斉明天皇は二度皇位(重祚)に就いていますが、
先ず夫の舒明天皇の没後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、
皇極(こうぎょく)天皇として即位します。

皇極時代に、「大化の改新」とも称される乙巳(いっし)の変が起きます。
「大化の改新」のことは、学校で習いましたよね。

蘇我氏の専横に反発した中大兄皇子が、中臣(藤原)鎌足と組んで、
飛鳥板蓋(いたぶき)宮で蘇我入鹿を殺害するという事件でした。

皇極天皇の眼前で起きた事件で、
刃から逃れて足元にすがる蘇我入鹿(いるか)の手を、
彼女は不快感を露わに振り払って、立ち去ったとの逸話が残されています。

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 大化の改新の舞台となった飛鳥板蓋宮跡 (明日香村)

                      ☆

中大兄皇子と間人皇女の近親相姦は、真実? 

ここで、間人皇女(はしひとのひめみこ)について少し触れておきましょう。
斉明(皇極)天皇陵墓で合祀されたとされる皇女です。

彼女は、皇極天皇の弟の軽皇子(かるのみこ・後の孝徳天皇)と結婚します。
叔父と姪の関係ですが、当時は珍しいことではありません。

親族間の結婚でタブーとされたのは、
母親を同じくする兄妹(姉弟)間の関係でした。
この関係だけは、鬼畜のように忌み嫌われたのです。

間人皇女にとって、中大兄皇子は母親(皇極天皇)を同じくする兄でした。
決して交わってはならぬ相手でした。
ところが、どうやらこの二人は相思相愛で、
近親相姦の関係にあったのではないかと言う学説があるのです。

一部の学者が支持していますが、もしそうだとすると、
中大兄皇子が、実力の有る皇太子の身でありながら、
すんなり皇位に就けなかった理由(穢れた身)が釈然とするのです。

                      ☆ 

皇極天皇は乙巳の変(大化改新)を機に退位し、
弟の軽皇子が考徳天皇として即位、間人皇女は皇后となります。

後に、中大兄皇子(皇太子)は、天皇・皇后二人の仲を裂いて、
自分の元へ間人皇女(皇后)を引き寄せるという暴挙を犯しています。

美貌といわれた皇女と、野心的な逞しい皇子との間に、
果たしてどのような気持ちのやりとりが有ったのでしょうね。
物語好きとしては、いろんな情景を想像してしまいます
許されぬ恋… 間人皇女の悲劇の恋が切ないですね~

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    岡寺より明日香村(飛鳥時代の大舞台) 遠望


中大兄皇子に振り回された、斉明天皇
 

さて皇后を奪われ、失意のうちに孝徳天皇が没しますと、
皇極天皇は、斉明天皇として再び皇位に就きます。

皇太子の中大兄皇子が、何故皇位に就けなかったかは諸説有って、
間人皇女との忌むべき関係を持ったことも、その一つの理由なのかも…

ただし斉明天皇の治世とは言え、実権は中大兄皇子が握っていました。

台頭してきた中臣氏(藤原氏)の勢力を背景に、
中大兄皇子は実に多くの謀略、殺戮を断行しています。
例えば、孝徳天皇の皇子、有間皇子を騙して殺害しています。
徹底的に政敵を粛清していったのでしょう。

まさに動乱の世でした。

斉明天皇は、ただ黙って見ているしかなかったのでしょう。
斉明天皇自身、一時、岡寺(明日香村)に幽閉されたりしています。

そして、中大兄皇子の一番の失政と言われる「百済出兵」で、
壊滅的な打撃を受け、国土・民衆は疲弊していきます。

斉明天皇は、女帝の身でありながら軍隊とともに九州に赴き、
その地で不運の最期を遂げるのです。
最期まで、中大兄皇子の犠牲になったといえますね。

                      ☆

牽牛子塚古墳の被葬者が特定されて、 

ひとりの皇子に振り回された二人の人生を想い、哀れさを感じました。
古代史は謎が多く、探れば探るほど、思いがけない人生に出逢えるのです。

                      ☆

父ちゃん、新聞で~す。 ( 勿論、ヤラセですthink 

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         父ちゃん 新聞で~す

時々、こんなことするワンちゃんいますよね。 カワイイ!

次郎たん、なんか怒ってるの?

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2010年6月 8日 (火)

『小椋』さんと、悲運の皇子

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     次郎先生近影

次郎先生の、歴史よもやま話 

今回のウンチクは、小椋(おぐら)さんのルーツについて

小椋さんといえば、アーティストの小椋佳さん、
バトミントンの小椋久美子さんが有名ですね。

そのほか各界で活躍中の方が、沢山いらっしゃいます。

姓ランキングでは736位、人口はおよそ、2万7000人
全国的にはさほど多くはないが、全く少ないわけでもない、
まあ、そんな感じなのでしょうか。

実は、この『小椋』という姓は、特別な由緒の有る姓で、
悲運の皇子にまつわる、歴史のロマンに満ちた姓なのです。

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梅原猛 『京都発見ー洛北の夢』 を読んで、
悲運の皇子、惟喬(これたか)親王のことを知りました。

足跡を追っていくうちに、『小椋』 姓の発祥に辿りつきました。
そのことを、少々まとめて綴ってみます。          

1

悲運の皇子、惟喬(これたか)親王

時代は、平安時代初期にまで遡ります。

桓武天皇が平安京に遷都(794年)してから、ちょうど50年後、
承和11年(844年)、
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子として誕生します。

母は、紀氏一族の、更衣(こうい)紀静子です。

文徳天皇は、聡明で人望の厚い惟喬親王を愛して、
皇位を継がそうとしましたが、実現出来ませんでした。

太政大臣藤原良房の娘、女御(にょご)藤原明子との間に、
第四皇子、惟仁(これひと)親王が誕生したからです。

泣く子も黙る藤原氏。
すでに弱小化した紀氏の血を引く第一皇子は排斥されました。

そして、藤原氏の絶大な権力を背景にして、
惟仁親王が皇太子となり、後に清和天皇として即位します。

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          女御の図

ちなみに女御、更衣は、天皇に侍る女性の位階で、
正式な妻の皇后は、女御から昇進しました。

今風に言えば、本命でおつきあいの段階が女御、籍を入れて皇后。
その他、いろいろとおつきあいの人を更衣と言ったのですね。

これは、あくまでも平安時代の宮中ですから、念のため。
それにしても、羨ましい!

               ☆

さてさて、藤原氏にとって、
聡明で人望のある惟喬親王は邪魔な存在です。

藤原氏の陰謀で、滅亡させられた皇子(親王)は沢山いるのです。
惟喬親王は、藤原の視界から消えねばなりませんでした。

若くして出家し、僅かの従者を伴っての流転の日々でした。
悲運の親王の足跡を辿ると、
各地で、『惟喬親王伝説』が、いまも語り継がれています。


近江(滋賀県)の山深く、小椋の庄

滋賀と三重の県境に横たわる鈴鹿山系の奥深く、
滋賀県永源寺町(現、東近江市)の蛭谷、君ケ畑地区があります。

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むかしは、小椋の庄と呼ばれた土地です。
惟喬親王の隠棲先では、最も辺鄙な土地でしょう。

この地で、聡明な親王は
巻物のヒモから、ロクロの技法を思い付きました。
今で言えば、画期的なハイテク技術の発明です。

そして、その技法を杣人(きこり)たちに伝授したのです。
杣人たちとの交流は、
流転の親王にとって、さぞこころ安らぐ日々であったことでしょう。

              ☆ 

ロクロの技法で
正確で素早く、椀や円筒製品の製作が可能になりました。

「木地師」と呼ばれる木工集団の誕生でした。
木地師たちは、親王から直接伝授されたことを誇りとしました。、

そして、故郷の『小椋』の地名を名乗って
全国の山地から山地へと進出し、浸透していったのです。
『大蔵』と名乗る集団もいたようです。

ロクロを使って「こけし」を彫る東北地方にも、
惟喬親王を祀る立派な神社があります。

木地師たちは、惟高親王以来全国に勢力を広げ、
千年以上も連綿と続く歴史を刻んできたのです。

              ☆

明治になって、全国に散っている木地師たちも定住を余儀なくされ、
廃業転業する人たちが続出して、木地師社会も激変したようです。

それでも、『小椋』や『大蔵』を名乗る木地師の末裔の人たちは、
近江の小椋の庄が、今も誇り高いこころの故郷だといいます。

現在、『小椋』を姓とする全ての人が、
木地師の末裔だというわけではないでしょうが、
『小椋』『大蔵』という姓自体には、こうした深い由緒があるのです。

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  滋賀県君ヶ畑 惟喬親王を祀る『太皇器地祖神j社』

小椋の庄を出られた親王は、
洛北の大原、雲ケ畑、二ノ瀬、小野郷などに隠栖され、
寛平9年(897年)、53才で薨去されました。

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惟喬親王といえば、
『伊勢物語』にまつわる親王としても知られていますね。
物語の主人公とされる在原業平とも、深い交流がありました。

『伊勢物語』は、 
伊勢神宮の斎宮と主人公のおとこが密通する話を描いて、
当時の貴族社会に衝撃をもたらした歌物語です。

『源氏物語』にも大きな影響を与えました。
恋愛模様は、現代よりもっと大らかだったのですね~
その辺りの楽しいお話は、また次の機会に。

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2010年5月10日 (月)

梅原猛さん、自説を覆す!

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    「知の巨人」 梅原猛さん

文化勲章受章者である哲学者の梅原猛さんは、現在85才です。

85才にして知的情熱はなお衰えることなく、
新著 「葬られた王朝」 は大きな話題になっています。

梅原ファン、古代史殊に出雲史ファンのわたしには、
小躍りしたくなるような、嬉しい新著なのです。

                ☆

85才にして溢れる、知的情熱の源は何かと問われて、

青年だった僕らを 『死ね』 と戦場に駆り立てた祖国への怒りと、
それでも消えない愛情。
相反する強い気持ちが、私をさらなる日本研究に駆り立てるのです。

と梅原さんは答えています。 「知の巨人」健在なり!ですね。


「梅原史観」のこと

梅原猛さんの研究テーマは、
敢えて一言で言うなら、「日本人とは何か」 に尽きるように思います。

日本人のこころのルーツを探るため、
仏教研究などとともに、
古代史研究にも、並々ならぬ心血を注いでこられたのです。

その研究成果は、「梅原日本学」「梅原史観」として結実しています。

「梅原史観」とは、怨霊、言霊、祟りへの恐れなど、
日本人の精神的な面からも、歴史を読み解く歴史観です。

合理主義一辺倒の現代人には理解できませんが、
古代では、怨霊、祟りへの恐れなどが、政変、動乱を呼び、
遷都や巨大建造物建立の動機にもなっているのです。

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こうした日本人の精神的な側面は、
資料(記紀など)だけで歴史を構築してきた従来の歴史学が
無視するか、軽んじてきた部分です。
つまり、学校の教科書では習わない部分です。

ある意味、哲学者でなければ指摘出来ない部分でしょう。

「梅原史観」は、まだまだ歴史学では受け入れられていないようです。

歴史は人間が作るのです。なぜ歴史学は、
人間の精神史をもっと掘り下げて学ばないのでしょうね。

血の通わない歴史をいくら学んでも、暗記科目の域を出ないでしょう。

わたくしも 「梅原史観」を知ってから、歴史の見方が変わりました。
「考える歴史」 の面白さを知りました。

「梅原史観」の信奉者として、
「逆説の日本史」の井沢元彦さんが知られています。


知的情熱、自説も覆す

さて、今回の新著 「葬られた王朝」 です。

現在の天皇家の祖先である、古代ヤマト王朝とは別に、
出雲地方を中心に、中国地方、近畿、北陸にまたがる
巨大王朝が存在したという仮説に、
文化勲章受章者、梅原猛さんが深く踏み込んだのです。

日本の古代史、天皇家の歴史さえも書き換えるかもしれない、
衝撃的なことなのです。

この仮説には、従来までも多くの歴史家が踏み込んでいます。
もっとも皇国史観のタガが外された、戦後になってからのことです。

出雲に一大勢力が存在したことは、
多数の遺跡が発見され、考古学的にも実証されつつありますが、
「巨大王朝」の存在の裏付けには、まだ道のりが有るようです。

今回、梅原猛さんが「葬られた王朝」で深く踏み込んだことは、
その影響力の大きさから、画期的なことと言えるでしょう。

                ☆

かって梅原猛さんは、

ヤマタノオロチ退治などの出雲神話は、大和の先住民の伝承が、
何らかの政治的意図をもって出雲に置き換えられ、
日本書紀、古事記に収録された、

という立場をとってきました。

一般的な歴史学の考え方であり、
「出雲勢力」の存在を否定していたわけです。

けれども近年になって、島根県の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などで
一大文化圏の存在を示す遺物が、次々と発見されました。

梅原猛さんは、現地を訪れ、遺跡や出土品を調査、
古い神社をくまなく歩いたそうです。


「自説が間違いなら、生きているうちに正したい」


そう意を決して、改めて記紀神話を読み解きました。
神話の中に、史実を見抜いたのです。

そうして、今回の出版にいたりました。

研究者にとって、かって発表した学説を、
自ら批判、否定することほど難しいことはないと言います。

梅原猛さんの学者としての矜持に、頭の下がる思いです。

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梅原猛著 「葬られた王朝」 概要 

ヤマタノオロチや因幡のシロウサギなどで知られる出雲神話、
それは天皇家につながるアマテラスの系譜とは別個の、
スサノオを祖としたもう一つの王家の物語である。

もしこの王朝が歴史的に実在するものであったなら…
『隠された十字架』『水底の歌』以来の、
日本古代史を塗り替える衝撃的な論考。

はじめに 出雲へ
第1章 出雲王朝はスサノオから始まった
第2章 オオクニヌシ―王朝を繁栄させた大王
第3章 考古学が語る出雲王朝
第4章 記紀の謎
おわりに 出雲大社の建造

『隠された十字架』『水底の歌』、
そして今、日本古代史を塗り替える新たな論考! 
弥生期は
スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝が日本を統治していた!

                    (紀伊国屋 書籍サイトより)

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          出雲大社本殿

大和王朝の以前に、
日本海側を中心として、日本を統治していた勢力が有った。
やがて、南九州から遠征してきた天孫族に滅ぼされた。

天孫族による大和王朝の正当性を主張するため、
藤原氏が権力の中枢を占め続ける布石のため、
藤原氏によって、建国神話は改ざんされた。

そして、闇に葬った前王朝の神々を鎮魂するため、
出雲大社に巨大本殿を建てた。……

「葬られた王朝」
古代史ファンにとって、新たなロマンが広がるのです。

※5月10日読売新聞文化欄記事を参考にさせて頂きました。


久し振りの、古代史ネタです。
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なんか、眠くなってきたな~

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2010年3月19日 (金)

能登の春の 古代ロマン

古代絵巻のような、ロマン溢れるお祭りです。
スケールの大きさでも、全国に稀有なお祭りです。

能登に春を告げる、気多大社の「平国(へいこく)祭」

念願かなって、出かけることにしました。

平国祭は、「おいで祭り」とも呼ばれています。
「おいで」とは、神様の御巡幸という意味です。

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     能登一の宮 気多大社


寒さも 能登のおいでまで

厳しい冬に耐えながら春の訪れを待つ、北陸能登の人々は、
古くから 「寒さも 能登のおいでまで」 と唄って、
「おいで祭り」 を心待ちにしてきました。

3月18日、「平国祭」 神様のおいで(御巡幸)が始まりました。
能登に、春が来たのです。

志賀、羽咋、中能登、七尾の二市二町
総行程 300Km以上、6日間の壮大な御巡幸です。

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          能登路を行く 「おいで祭り」 の行列

                    ☆

気多大社 「平国祭」の謂れを少々。

気多大社の祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
出雲大社の祭神と同じです。

古代、まだ神話世界のころ、
大国主命は、出雲から能登へ遠征します。

越(こし)の大蛇(おろち)を退治して、能登を平定します。

出雲神話にある 「国引き神話」の中に、
スサノオが能登の岬に綱を掛け、出雲へ引っ張ってくる話があります。

この神話などは、大国主命による能登の平定を寓話化したものでしょう。

「平国祭」は、大国主命が、
能登の国を平かくした(平定した)事蹟を伝承し、讃えるお祭りなのです。

御巡幸の先頭は、上の写真のように神馬です。
大国主命は神馬に跨り、平定した領内を御巡幸されているのでしょうね。

                    ☆

行列は、早朝に気多大社を出発します。
神馬を先頭に、神職、白丁姿の若衆、総勢 50人ほどの行列です。

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御巡幸の行列は、ゆかりの神社、お祓いを受ける家々を巡ります。

沿道では、手を合わせてお迎えする人も多いそうです。
神話の世界が、今も息づいています。

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なぜ、気多大社の祭事が、これほど広域に渡って催されるのでしょう。

出雲神、大国主命の威厳が、それほども大きかったということでしょうか。                                  


大国主命とは、何者なのでしょう。

北陸には、大国主命にまつわる神話が沢山あります。

古代出雲勢力が、北陸を支配していたことは、
考古学的にも実証されつつあります。

絵空事とされてきた神話世界が、
実は何らかの史実を物語っていることが分かってきたのです。

大国主命とは、何者なのでしょう。

奈良(大和)の大神神社でも、大物主と名を変えて、
手厚く祀られています。(皇室も崇敬を寄せています)

古代史最大の、謎に満ちた人物なのです。

能登の地で大国主命の祭事を目にして、
古代史ファンの父ちゃんは、ますます古代ロマンが広がりました。


気多大社に、お参りしました。
 

気多大社は、出雲大社同様、縁結びの神様でもあります。
境内の「縁結びの道」には、無数の絵馬が掛けられていました。

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                  気多大社 社殿

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良縁を求める人が、沢山いるのですね~

けっこう年配のご婦人がお参りしていました。
子供さんの良縁でしょうか。それともご本人のでしょうか。

ナンダ、母ちゃんでした。 エッ?


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気多大社の近くに、千里(ちり)浜があります。

砂の粒子が細かく、波打ち際でも車が走れます。
路線バスも通っています。

夏になると、海水浴の車が延々と波打ち際に連なります。

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大国主命が能登に向け出発したのは、出雲の「気多の浜」でしょうか。
「イナバの白兎神話」の舞台です。

能登に上陸して、同じように一帯を名付けたのかもしれませんね。
気多 とは、神の気が満ちている、ということのようです。

                    ☆

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次郎たん、お留守番でむくれていて
帰ってからダッコしようとしたら、「イヤ!」 と拒絶しました。
ごめんね。

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2009年11月12日 (木)

次郎たん日記  幻の邪馬台国

きょうも、 ジャーンプ!

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見て、見て!                          お達者!

                      

秋深く、 奈良がなつかしい。

11日の新聞、 テレビで大きく報じられましたが、
奈良・纏向(まきむく)遺跡で、
大規模な建物跡が見つかったということです。

纏向遺跡といえば、 ヤマト朝廷発祥の地とされるところ。
3~4世紀では、国内最大級の集落遺跡です。

近くに、卑弥呼の墓の説がある、「箸墓」があります。

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 箸墓   姉ちゃんと奈良旅行の時に撮影

見つかった建物跡は、
「整然とした計画で築かれた、国内最古の建物群」 だということです。

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復元模型   (読売新聞)

この、宮殿跡ともいえる建物群跡の発見で、
邪馬台国論争が再燃しているそうです。
俄然、 機内説(大和説)が力を得ているようです。

吉永小百合、竹中直人主演の映画 「まぼろしの邪馬台国」の上映で、
古代史ファンが急増しているそうです。

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映画「まぼろしの邪馬台国」より  (東映配給)

古代史ファンの最大のロマンは、 「邪馬台国」でしょう。

邪馬台国の位置をめぐって、九州説と大和説が対立していることが、
古代史ファンのロマンに、拍車をかけているのです。

今回の纏向遺跡の発見で、
3世紀半ば、卑弥呼の活躍した時代に、
大宮殿が大和に存在したことが、実証されました。

父ちゃん、半端な知識ですが、やっぱり邪馬台国は大和で、
箸墓は、卑弥呼の墓だという説に、一票投じたいです。

だいたい、邪馬台国は「ヤマトこく」と読めるのです。
こんな基本的なことを、なぜ大切にしないのか疑問だと、
ある有名な作家が言っていました。  賛成!

テレビのインタビュウで、九州説の学者が、
「今回の発見は4世紀以降のもので、邪馬台国とは結び付かない」と
反論していました。

発見された遺構が、3世紀半ばか4世紀以降か、
またまた論争が続くようです。

永久に、決着はつかないのでは?
ファンは、 いつまでもロマンを楽しめるというものですね。

                             ☆

父ちゃん、名古屋の姉ちゃんと三度ほど、奈良を旅行しました。
「親娘」で旅行だなんて羨ましい、とみんなに言われました。

いまアツイ、纏向遺跡にも行ってみたいな~
秋も深まって、明日香、長谷寺、室生寺…
きっと、紅葉がきれいでしょうね。

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                           じゃあ  またね

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2009年9月29日 (火)

次郎たん日記    次郎先生の歴史講座 ②

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          コムラサキシキブの、 かれんな実がなりました。

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             次郎先生の歴史講座

                 2009_0928_102206img_0585_2    

                                                          ナンダカ大学  准講師

                                                          古代史専攻

                                                          ときどき、フラッと旅に。

       いざ、 出雲神話の世界へ

     日本一の色男 大国主の運命は?

       《イナバの白兎神話》 を読み解く。  partⅡ

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「日本書紀」「古事記」などの神話に登場するオオクニヌシ(大国主)は、
実に多くの別名で呼ばれています。

オオクニヌシ、 オオモノヌシ(大物主)、 オオナムチ(大己貴)

アメノヒボコ(天日矛)、 アシハラノシコオ(葦原色許男) ………。

もう一人、 歴史時代の聖徳太子もまた、多くの別名を与えられています。

古代史の巨人二人が、 なぜ、 多くの別名を与えられて描かれたのでしょう?

実像をあいまいにしようという、 編纂者の政治的意図という学説もあります。

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葦原色許男(アシハラノシコオ)  大国主の別名です。

葦原は、 天上から見た日本のクニのこと。       日本の色男!

実は、 シコオのシコには、古代史の根幹に触れる、深い意味があるのですが、

それは、次の機会に。

                        dog

さて、 お話を前回の続きにもどしましょう。

兄たち(八十神)の妨害にもめげず、 
白兎の予言通りにヤガミ媛と結ばれた大国主。

そのまま、 メデタシとはなりませんでした。

大国主  危うし!

美しいヤガミ媛が大国主の手に落ちて、 八十神は嫉妬に狂います。

策略を弄して、 大国主に熱した大石を抱かせ、 殺してしまうのです

                 閑話休

                 神話で、その土地(クニ)の媛と結ばれるという話は、

                 その土地を領土にしたということです。

                 大国主が多くの媛と結ばれる寓話は、多くのクニを

                 攻め取ったということ。

                 まさに、 大いなる国の領主だったのです。

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大国主  奇跡の生還

大国主の死を嘆き悲しんだ御祖(みおや 母)が、 
実力者の神産巣日(かみむすび)に命請いをします。

請いを受けて、 キサガイヒメと ウムギヒメが派遣されます。 

二人は、 病の治癒に長けた、いわば女医です。

女医たちは、 キサガイ(赤貝)、ウムギ(蛤)の殻を粉末にして、
蛤の汁とよく混ぜて、大国主の火傷にぬります。

あ~ら、不思議。  火傷は癒え、大国主は美丈夫となって、生まれ変わりました。

これが、 白兎神話のあらすじです。

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白兎神話の、意味すること

白兎神話は、日本最古の処方箋

イナバのヤガミ媛と結ばれた寓話は、 大国主がイナバのクニを手中にしたこと。

大国主は、 過激な重婚者。

出雲が、越(コシ 北陸地方)にまで勢力を伸ばす一大王国であったことは,
考古学的にも立証されつつあります。

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さて、 白兎神話が何より伝えたかったことは、 くすりのこと。

縄文時代より、 医は呪術でした。  呪術に長けた者が権力を握りました。

卑弥呼もまた、 呪術をよくしたと魏志に記されています。

出雲は、日本で最初にくすりの概念を取りいれた国でした。 当時のハイテク国家。

白兎の傷にガマの穂。  大国主の火傷に赤貝と蛤の粉末。 ……

そして、 呪術ではなく、医を専門とする者の存在。

イナバの白兎神話は、 日本最初の医学書、処方箋、薬理書だと言われています。

くすりの知識が、 大国主の権力構築にいかに大切であったかを、 
この物語は寓話化したのですね。

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それにしても、 大国主は何者?

天皇家も崇敬を寄せる大和の大神神社で、 大物主として祀られ、

出雲大社の巨大な神殿(昔は数十メートルの高さ)で、 大国主として祀られる。

後の権力者によって、神話の世界に封じ込められた、古代日本の英雄?

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                         次郎先生近影  このごろ眠くって… 

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                            次郎先生  寝てばっかし!

                       dog    じゃあ  またね

                           

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2009年9月16日 (水)

次郎たん日記    次郎先生の歴史講座

  次郎先生の歴史講座

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              トンデモ大学 准教授

              古代史専攻

                               少々 お疲れ気味

特定の人との、恋の成就を願うなら……。

「イナバの白兎神話」を読み解く。

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かわを剥がれて、まるはだか~notes

若い人は、知らないでしょうね。 でも、年配の人なら一度は歌った唱歌です。

イナバの白兎は、古事記では、「稲羽の素兎」です。

素兎の素は、素人(しろうと)と同じで、シロと読みます。
素の意味は、素足と同じで、裸ということです。

白兎は、元々は、白い兎ではなくて、裸の兎。 皮をはがれた兎。

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白兎神話は、恋の物語でもあります。

神話を読むと、古代の人の物語(ロマン)を作るチカラ、
恋に憧れる強さに感服します。 
若い女性に、出雲が人気があるのは、そのあたりかな?

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《あらすじ》

ヲキノ島から、イナバの浜へ渡りたいと、兎が思います。そこで、一計を案じます。

ワニ(サメ?)を騙して、舟橋のように並べさせ、その上をピョンピョン渡ります。

イナバの浜(気多の浜、ケタ)を目前にして、兎の一言から、姦計がバレます。 
ワニは怒りりました。

皮を剥がれ、痛くて、兎は浜にうずくまります。

さて一方……。

イナバの国の、美しいヤガミ媛に憧れる神たちがいました。

神たちは、求婚の旅にでます。 

競争相手を少なくしようと、兄たち(八十神)は弟の大国主(ヲヲクニヌシ)に、
後から来るように命じます。

ケタの浜で、苦しむ兎に出会った八十神は、海水で洗うようにと助言します。

塩が浸みて、兎はますます苦しみます。

《いよいよ サワリ》

遅れて来た大国主が、真水で洗い、止血力のあるガマのはなの上で
安靜にしていなさい、と教えます。

兎は感謝し、

ヤガミ媛は、あなたと結ばれるでしょう、と予言します。

兎の予言通り、大国主は求婚に成功しました。 メデタシ、メデタシ。

いつの世も、恋の成就には、優しさが一番なのですね。

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出雲に、白兎を祀る白兎神社があります。

出会いを求めてお参りするのが、出雲大社です。

でも、特定の人との恋の成就を願うなら、白兎神社だといわれて、
恋人たちの隠れた穴場なのだそうです。

それにしても、大国主は、実に多くの媛たちと結ばれています。

なんとも、ウラヤマシイ~! 

             dog

この物語には、後日談があります。

そして、この物語の真に意味するところは?

次回にお話しさせてくださいね。

          2009_0916_135247img_0237

                                     次郎先生 近影 (近くの神社にて)

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2009年9月12日 (土)

次郎たん日記   秋ですね

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     この顔の角度はどうでしょう? ちょっぴり,自信あるんですけど…

     写真映りのいいの、犬にもいるんだァ、と母ちゃん。 そんなァ~!

 

もう、秋ですね。  実りの秋です。

黄金色の稲穂が垂れています。

山々の色が、鮮やかになりました。 

このごろ季節感が無くなったけど、自然に触れると、やっぱり季節を感じます。

  2009_0912_074717img_0112

 そろそろ、稲刈りです。

新米のご飯だと、フリカケか塩辛だけで、お茶碗ニ杯はいけます。

一年中、新鮮な野菜は手に入るけど、お米は秋。

結局は食欲? 

  食欲の秋です。

父ちゃんの手料理を紹介します。

あんまり、美味しそうに映ってないけど…  dog

料理の写真は初挑戦。 ( これから勉強します )

 2009_0911_181333img_0105 

  豚肉とイカのシーザーサラダ

茹でた豚肉と生イカ、レタス、カイワレ、茹でたモヤシを

シーザードレッシングで和えた、簡単なサラダ。

肉、白身の魚介は大概合います。 大雑把な男の料理です。

チーズの旨みのシーザードレッシングは大人向きで、

コクはあるけど、比較的味が淡白なので、塩コショウをきかせて。

クセの強い野菜を加えると、もっと美味しいかも。

 「出雲」のウンチクを、少々

出雲は、神話の国。 神話に登場するスサノヲやアメノヒボコの末裔、
子孫を名乗る人たちが、今でも沢山いるそうです。

「出雲」の国譲り (神話) の時に、あそこの先祖はうちの先祖をいじめた、
などと言って、仲たがいしている人たちがいると言う話も聞きます。

凄いのは、現在でも、出雲国造(こくそう)家が存在することです。

国造は、学校でも習ったけど、「くにのみやっこ」と呼ばれた地方長官。 
奈良時代には消滅していたはずです。

それが出雲では脈々と続いています。古代から受け継ぐ格式を大切に守って。

出雲国造家は。出雲大社を守る千家氏。 人々の尊敬を集めています。

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今日は、次郎たんの話題が無かったね。

                        dog  じゃあ、またね

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